| 八島高明の〔占いと運命の教室〕 (基礎・初歩編) NO 9 |
運の意味がわかると、人生は楽になる
人生が変化するしくみを解明する
運とは何かを考える
占いの世界では、よく「運」という言葉を使います。運とは、巡ってくる吉凶の現象を言います。世の中にある幸福や不幸など、人知によっては測ることのできないものを総称して使われているようです。
でも果たしてこのような幸福や不幸を司る「運」というのは、本当に存在するのでしょうか。また、本当に存在するのであれば、どのような「原理」によって、それは動いているのでしょうか。
私はこうした「運」の存在を一般的に考えられているように、必ずしも不思議な現象とは捉えません。なぜなら、こうした「運」の原理が、たしかな運命法則の下に機能していることがわかっているからです。私はこの運を「意識の変化」として理解します。つまり、「運が変わった」というようなときは、「意識が変化した」と言い換えることも可能なのです。
意識が変化すると、その人はこれまでの人ではなくなるでしょう。たとえば「運が良くなった」というとき、その人の意識の状態が変化して、これまでとは違った優れた能力が発揮されると考えられます。また、その反対に運が悪くなったというときは、その人の意識が悪い方向に変化し、これまでとは違っていわゆる「感の冴え」がなくなるのです。
運の変化とは意識の変化に他ならない
それが運命分析で言うところの「運」の変化であり、それはまた「意識」の変化でもあるのです。このような意識の変化は、実は誰にでも頻繁に起きています。自分自身の過去を見ても、幼少期から同じ性格、同じ能力ではないことがわかるでしょう。性格や能力、気質や体質などは、時間の経過と共に少しずつ変化していることがわかるはずです。こうした意識の変化は、運命の様々なドラマを作り出していく源になります。運命を解明する鍵―それは潜在意識の構造に隠されていると考えられるのです。
意識の構造を探ると心理器官が見えてくる
意識の変化という現象は、いったいどのような基盤の上に成り立っているのでしょうか。それを深く考えていきますと、その根底には科学とも矛盾しないようなエネルギー的な背景を持った「心理構造体」が存在していることがわかります。意識は複雑な働きをします。
ですから、私たちは意識という精神現象が、いったいどのようなメカニズムで動いているのかはわかりません。科学全盛の時代であれば、一般的にはそれを「脳内部の現象」と考える人もいるでしょう。
しかし、私はこれまでの自分自身の経験や研究から、こうした説をきっぱりと否定します。それは理屈ではなく、自分自身の様々な体験から、意識というものが脳に付随するものではないことが、はっきりと断言できるからです。
私は意識が「心理器官」という内的器官を中心にして発生すると考えます。それは脳の中にではなく、次元の異なる空間(霊的次元)に存在し、経絡的な回路を使って脳と情報をやりとりしているのです。つまり、意識というのは身体の「脳」が生み出す心理現象などではなく、それ自体が独立した心理器官として実在しているということです。そして肉体の脳をチャンネルとして使い、心理器官の発する情報が脳を媒介して表現されているのです。
ですから、脳とは心理情報をキャッチして、それを表現するための「テレビ」や「ラジオ」のようなものにたとえられるでしょう。テレビやラジオは、それ自体が情報を発生しているわけではありません。それはただの「受信機」であり、テレビ局やラジオ局より送られてくる電波を受信して、そこで組み立てて表現しているに過ぎません。「意識」と「脳」の関係もこのようなものです。
「意識」には心理器官という構造体があるので、心理現象もただの脳内現象ではなく、そこには何らかの実質的な作用が動いていると想定しなければなりません。これを幽霊のような実体の無いものだと考えてはいけないのです。意識の中には、あらゆる科学の検証にも耐えうるような「心理構造体」があると私は考えています。
古代人は心理器官の存在を知っていた
現代人は科学的な教育を受けています。ですから、こうした「意識」のメカニズムを科学的に理解することができます。しかし、そうした意識の変化する法則を発見した古代や中世の知識人たちは、現代人のような思考法を持ちませんでした。
ですから、意識の変化する現象を、「運」というように理解したのではないでしょうか。現代人が考えるような「意識」の概念も、まったく別の概念、つまり、運という言葉で表現したと私は考えるのです。
私たち現代人はそうした時代背景をまったく知らないために、古代や中世の人たちを無知であると思い込んだり、その時代に作られてきたものに対して偏見的な烙印を押したりします。でも、その時代に形成されたもの全部を検証もなしに否定するのはどうでしょうか。
私は古代や中世、それ以前の遥か古い時代にも、現代科学を遥かに凌駕するような古代人の「英知」が存在していたことを知っております。ただ、その時代の人たちの思考法というのは現代人と全く異なっており、私たち現代人がいわゆる現代的な「思考法」をもって、古代やそれ以前の時代を、深く理解することはできないのです。
そうした知識を一概に過去のものとして否定するのではなく、そうした知識が本当に正しいかどうかの検討を、自らの思考や経験によって詳細に検討すべきなのです。もし、それがあきらかに古代や中世の時代的な偏見や誤謬であれば、それを捨て去ればよいでしょう。
私の運命学研究の経験からいえば、古代や中世に形成されたこうした知識の中には、たしかに時代的な偏見・誤謬が数多く存在しております。たとえば似たような概念を他の概念と見当違いしたもの、言葉の近似性を利用したまったくのこじつけ的な手法、迷信的な知識が多くあります。しかし、その一方では現代科学をはるかに凌駕したような知識も存在しているのです。そのような知識の重要さに、現代人は気づいていません。多くの現代人がそれを非科学的な迷信として扱っているのです。
意識は科学機器では観測できない
さて、先にこの「運」というものが、現代流に言いなおせば「意識の変化」であり、エネルギーという科学的な背景を持っていると述べました。それを単純に理解することは不可能かもしれません。それは何らかのエネルギー的な背景を持つものですが、それがストレートに現代の科学で解決できるとは言えないのです。
私の現時点の考えでは、こうした意識のエネルギーは、機械などの観測器機によって観測することはできないと考えております。なぜなら、その観測する機械自体がいわゆる「物」であり、「物」によって観測できるのは「物」でしかないからです。
ただ、こうした物によって観測できない意識エネルギーにも、規則正しい周期的な循環律があります。また、規律的な法則のもとで動いているのを観察するとき、こうした意識という精神現象においても、何らかのエネルギー的な「構造体」があると考えざるを得ません。
私の考えでは、これらの意識を構成するエネルギー的な実体は、現代科学が発見した「物の精髄」ともいえる素粒子を遥かに超える、超微細なエネルギーで構成されているのではないかと考えております。
もしそうであれば、この意識を構成するエネルギーの存在は「物」でできた機械によっては観測できませんから、それを観測するには、まったく別の観測手段を考えねばならないのです。私はそれが近い将来において、機械を遥かに凌駕する人間の内的な能力によって、達成されると予測しております。
運は理性の中で動いている
私たち現代人の理解を遥かに超える意識の存在は、人間の最も高度な精神機能でもある「心理」というものを構成しており、知覚や感覚、思考を統合して、私たち人間の高度な精神活動を支えています。では、意識にはどのような構造があるのでしょうか。その実体を解明するのは容易なことではありませんが、意識には運命と深く関連する構造があるのです。それを一言で表現しますと、「運とは、理性意識の機能変化である」ということになるでしょう。
「理性」とは何でしょうか。よく哲学などで使われてきた言葉ですが、難しい概念は抜きにして「理性」を一般的な言葉で平たく表現しますと、「人間的な意識をもたらす機能」と言い換えることができます。たとえば、動物は人間と違って「理性的」ではありません。それは動物には常識という概念が無いからです。
人間だけが常識という概念を持ちます。それは世間一般的に言われる「知識」「道徳」「倫理」など、人間であれば誰でも共有するもの、それを常識と呼ぶことができるでしょう。人間はこの常識を持つことによって、人間であると認められるのです。理性とは、そうした高度な人間らしさを作り出すもの、それを理性と呼ぶことができるでしょう。
占いの世界でいう運とは、理性機能の変化である
それは一般的に高度な意識に付随するものとして理解されています。ただ、それは意識に付随する何ら実体の無いものではありません。
理性とは意識の中にあって、実体的な働きをする「一つの機能」をいうのです。私はこの理性といわれる機能が、運命学で言うところの運と同一のものであると考えているのです。
たとえば、この理性の機能が衰弱すれば、人間は犬や猫などの動物的な存在に成り果ててしまうでしょう。つまり、私たち人間は高度な理性の働きによって、人間的な能力を発揮しているのです。それを反対に考えればわかりやすいかもしれません。
つまり、こうした理性の機能が衰弱するときには、人間らしい高度な能力を発揮することができなくなると言うわけです。私はそこに理性の果たす重要な役割があると気づきました。そこに理性と運の関係が見出せるのです。
たとえば、ここに「運」の弱った人物がいたと想定します。その人は運が弱った状態ですから、運命学で言えば、それまで当たり前のようにできたことができなくなります。それは「仕事」「人間関係」、あるいは「勉強」などに障害をもたらすことでしょう。以前は普通にできたことが、こうした時期にはできなくなるのです。
運命学ではこうした状態を「運の弱った状態」として理解します。今度はそれを心理学的に解釈してみると、それは「意識の弱った状態」、あるいは「理性を喪失した状態」として理解するでしょう。この二つの違いに着目してください。それは同じ状況をさしながらも、まったく違う言葉で表現されるのです。そこには言葉の違いしかないことが判るでしょう。つまり、私の言葉で言い換えるならば、「運が弱る状態」というのは、「理性が弱った状態」ということになるのです。
理性の機能が弱ると、同時に運も衰弱する
「運」が変化するというとき、「理性」の状態が変化しています。「理性」の状態が変化すれば、その人にとっては、心理的に大きな変化が生じることになるでしょう。たとえば理性が衰弱すれば、これまで簡単にできたことも出来なくなります。
それは人間関係、仕事、勉強など、人間的に高度な意識を必要とするものすべてです。これらは人間の理性という高度な意識によって為されていますから、この機能が麻痺してしまえば、何らかの障害が必ず出てくることでしょう。そこに共通しているのは、いずれもこうした高度な人間的な生活は、動物にはできない高等なものだということです。
その反対に「運」が向上したときを仮定してみましょう。運が向上するということは、そのまま「理性の機能的な向上」を意味します。理性の機能が向上すれば、それまでできなかった難しいことも、楽にできるようになるでしょう。意識が活性化し、全体的な能力が向上して、難しい「仕事」「人間関係」も楽にこなせるようになります。それがいわゆる「運の向上した状態」なのです。
私はこうした運命の変化に着目し、それが心理器官内部にある理性の機能に附随するものであることを突き止めました。つまり、古代から言われていた「運」とは、現代語でいう「理性の機能変化」だったのです。現代においては、完全に迷信のように考えられている「占い」の中にも、このような深い「真実性」が含まれていることもあるのではないでしょうか。心理器官の詳細については、通信講座のサポートページで詳細に述べています
〔八島高明・文〕
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