スピリチュアルと教育の融合について
人間とはいったい何でしょうか。それは肉体なのでしょうか、それとも精神なのでしょうか。現代流に 考えれば脳細胞の集合体なのでしょうか。
人間が哲学に目覚めてから、人は心理的な存在なのか、あるいは物理的な存在なのか、私たちは長い時間をかけてそのことを考えてきました。
しかし、いまだに人々を納得させるような明快な答えはまだ出ていません。デカルトは二元論を説きましたが、現代では物質的な一元論が主流のようです。
しかし、肝心の答えが見つからないにもかかわらず、産業革命にはじまった現代文明は格段の進歩をとげています。今ではどんな人でもその恩恵の中に生きています。
しかしその一方で、幸福を追い求めていたはずの科学万能主義は様々な弱点を暴露しはじめており、文明が高度に進歩しているにもかかわらず、私たちの精神はますます薄弱化し、人間の心はますます退化の一途をたどっているようにも見えます。
今、どれだけの人が「自分は間違いなく幸福である」といえるのでしょうか。これだけ文明が発達したにもかかわらず、現代人を襲うこの閉塞感はどこからくるのでしょうか。
教育にスピリチュアルが無くなった!
教育においてその影響はかなり深刻です。教育とはいったい何なのか、何を教えるのが教育なのか、何の目的で教育をするのか、誰にもわからなくなりつつあります。
かつてはエリート教育が正しい方向性であると誰もが信じていました。しかし、アメリカ型の実力主義の時代に入り、ただ高学歴というだけでは出世できない時代になりました。
これまでのように単に知識を詰め込んで秀才を育てるだけではどうしようもないのです。
いま、教育の基準がかなり曖昧になりつつあります。教育の意味を考えるには、「人間とは何なのか」をまず前提にしなければなりません。
人間という存在がわからなければ、正しい教育もできないのです。それは地図を持たないで旅に出るようなものです。正しい地図によって有益な旅ができるように、正しい人間の理解によって正しい教育がなされます。
科学文明が発達するにつれて、かつて人間性を温存していた宗教的な規範や、人間性の理解はすべて相対化されていきました。人間に関する基準がバラバラにされ、その本質が見えなくなってしまったのです。
 ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」といいましたが、それは人間自身が自らの中にある神的なものを殺し、合理性という荒野にむかって歩み出したことを物語っています。
私たちは今、このような時代に生きています。皮肉にも文明が進展するにつれて、ますます私たちはけっして「幸福ではない」状態に置かれつつあります。
人々はその事実を忘れようとして様々な娯楽に夢中になり、一時的でしかない流行を追いかけては自分自身をごまかして生き続けています。
フランスのノーベル生理学者のアレキシス・カレル(1873−1944)は、私たちが文明のこうした閉塞状況から抜けだすには「人間を科学すること」、つまり人間の正しい像を確立することが急務であるといいました。
人間がすべての基準となるべきである。それなのに人間は、自分たちが創り出した世界で異邦人になっている。この世界を自分自身のために組織するという能力に欠けていた。なぜかといえば、自分自身の本質について、実際的な知識を持っていないからである。
こうして生物でなく、無生物を研究する科学の勝ち取った偉大な進歩が、人間を苦しめる最大の災厄の一つになっている。われわれの知性と発明から生まれた環境が、われわれの身長にも姿形にも、寸分も合っていない。われわれは幸福ではない。道徳的にも、精神的にも退歩している。
工業文明が一番よく発達している集団や国家こそが、まさに弱くなってきているのだ。そして、一番早く未開状態へと戻りつつある。しかし、彼らはそれに気づいていない。
科学が自分のまわりに創り出した敵意のある環境に対して無防備である。
事実、われわれの文明は以前の文明と同じように、どういう理由かまだはっきりしないが、生きること自体に耐えられない生存条件を作ってしまった。
現代の都市住民は、その政治的、経済的、あるいは社会的な機構を通じて、しかしそれにも増して自分たちの弱さから、心配や悩みの声を上げている。
われわれは生命に関する科学が、これらのことに関して非常に遅れているがゆえの犠牲者なのである。
この大きな欠点を直すたった一つの救済策は、人間についてもっとずっと深い知識を持つことである。
そういう知識があれば、どういう仕組みで、現代の生活がわれわれの意識や肉体に影響を及ぼしているかわかるだろう。そうして、どうやって環境に適合したらよいのか、また大変革が絶対必要だとすれば、どうやってそれを変えたらよいのかもわかるであろう。
人間の本性や可能性や、それを実生活に表す方法を明らかにすることによって、この「人間の科学」は、人間が心理的に弱くなった理由や、道徳的、精神的病気の理由も説明してくれるであろう。
肉体的行動や精神的活動についての厳しい法則を学び、法に適ったものと禁じられたものとを区別するためには、そしてまた、人間の環境や自分自身を好みに合うように自由に変えることはできないのだということに気づくためには、ほかに方法がないのだ。
現代文明によって、自然な生存の状態が破壊されてしまったのであるから、「人間の科学」こそが、すべての分野の科学のうちで、もっとも必要なものになっているのである。
カレルの言葉は、もう半世紀以上も前の言葉(『人間この未知なるもの』三笠書房)ですが、いまだにこの問題が全く解決されていないことに私たちは気づくでしょう。カレルのいう「人間の科学」とは何でしょうか。それは生理学や解剖学、脳科学や心理学のことではありません。
カレルは現代科学の主流をしめる分析的な手法を通じては、真の人間理解には至らないと考えていました。つまり、遺伝子を解明するだけでは正しい人間の理解には至りませんし、また脳内の電気パルスを分析するだけでも正しい人間理解にはいたりません。
また環境的な要因を分析するだけの心理学、生理学的な分析をするだけの医学、あるいは栄養学的な分析による人間の理解では、いずれも人間性の本質を解明することはできないのです。
人間という存在は一個の映画にたとえることができます。映画は単にスクリーン上に映し出されたものが映画ではありません。一つの映画には原作、脚本、脚色、監督、俳優、音響、美術、映像その他があり、これらもろもろの合作が一個の映画を創り出しています。
人間も同様に生物学、生理学、脳科学、食物環境、教育環境、そして心理・精神の合作が一人の人間なのです。映画を理解しようとするとき、その構造体をバラバラにして取り上げ、一つ一つを分析していっても全体の映画が理解できないように、人間も分解して分析していくだけでは、その本質はつかめないのです。
今の私たちに求められているのは、人間という存在を分析的にバラバラにして理解するのではなく、それを有機的に統合できる新しい人間の科学なのです。
それは理想主義者であったカレルが考えたように、人間の全体性を包含したものでなければならないでしょう。
それによって打ち立てられた新しい人間像が、正しい教育の在り方を示してくれるのです。こうした人間像を打ち立てるのは不可能なことではありません。
人間という存在が実在する以上、それを全体的に組織する原理も必ず存在するはずだからです。
人間の本質を理解することなく、正しい教育をすることはできません。ですから、今私たちに求められているのは「正しい人間像を確立する」ということに他ならないのです。
人間は本来スピリチュアルな存在だ
正しい人間像を理解することが、正しい教育をつくるうえで不可欠です。人はどこから来てどこへ行くのか、そしてどのような存在なのか。
袋小路に陥っている現代科学にとって、この問題はある一つの手法を導入することによって解決のためのビジョンを得ることができます。
それは人間を単なる物理的・環境的な産物とみなすのではなく、一つの形而上的な存在とみなすことによって可能になります。
形而上的存在とは「時間や空間に縛られない、感覚を超えた超自然的な存在」ということです。近年まで、科学は人間を科学という範疇に収めるために、必死の努力を積み重ねてきました。
しかし、追求すればするほど人間が何なのかわからなくなるのは、皮肉としか言いようがありません。
現代科学の根本的な過ちの一つは、「人間を物理的な存在である」と一概に規定しているところです。
そこからスタートするいかなる科学も、本当の科学ではありません。デカルトが真理を見つけ出すために考えた方法は、「すべてを疑う」という懐疑的な方法でした。自然科学の根底にはデカルトと同じ態度がなければならないのです。
人間が物理的な存在であるという偏見から逃れるとき、これまで矛盾したまま放置されていた、様々な問題解決の糸筋がみえてきます。たとえば脳死に関する問題、これも人の死というものが何であるかを理解できれば解決できる問題です。
また、人間特有のあらゆる精神疾患、精神病の多くは原因不明のままです。精神疾患が単に器質的なものではなく、人間の意識と深くかかわっていることはフロイトの精神分析が明かしているところです。
しかし、その意識がどのような存在なのかということはまだ解明されていません。人間という存在を物理的な枠組みから外すことによって、こうした問題の本質が理解できるようになります。
人間を物理的な存在ではなく、それ自体固有の独立した意識をもつ実体であると仮定してみましょう。現代では適切な表現方法がありませんので、これを「霊」と表現することにします。
最近はスピリチャル・ブームですから、これを「スピリット」と表現してもよいでしょう。
ギリシャではこれをプシュケと呼び、ラテン世界ではアニマ、ドイツではガイスト、インドではアートマン、中国では魂魄、日本では「たま」と呼んでいました。
とにかく物理的な観測機器ではとらえられない、肉眼ではみえない形而上的な意識をもつ独立した存在が、私たちの意識として表現されているのです。
しかし、この霊という概念を心霊主義者たちが主張するようなものとして単純に解釈してはいけません。
本質的な霊というのは心霊主義者が考えるような単純なものではなく、もっと物理的、生理学的、生物学的なものも包含した、幅広い概念によって理解されねばなりません。
霊という言葉を遣うとき、まず原始的な呪術や精霊のイメージがあり、次にキリスト教や仏教などの宗教的なイメージがあり、さらに近代イギリスの心霊主義運動のイメージが顕著に現れてくるでしょう。
こうして作られてきた「霊」のイメージには、私たちの様々な先入観が付きまとってしまいます。しかし、霊は誰の独占物でもありませんし、また、いかなる宗教の教義によっても縛られるものでもありません。
霊についての正しい理解をするには、まずこうした偏見を捨て去る必要があるでしょう。
霊についての基本的な考え方について、ベルギーの詩人であり劇作家であったメーテルリンク(1862−1949)は、こう述べています。
死後の存続を想定しているわれわれが考える自我は、通常の知性でも肉体でもない。両者はたえず移ろい、変化する流れだということがわかっているからだ。ではそれは、常に推移の過程にある形体や実体でははく、ましてそれらの原因や結果としての生命器官でもない、何か不変の場なのだろうか。
だが実際は、この自我を理解したり、定義したり、在りかを特定したりすることは不可能だ。その起源にさかのぼろうとすると、連続的な記憶と一連の無秩序で変わりやすい観念しか見出せず、そうした記憶も観念もともに同一の生の本能に帰着してしまう。(モーリス・メーテルリンク『死後の存続』)
メーテルリンクは『青い鳥』で有名ですが、ノーベル賞作家でもあり、神秘主義的な気質をもつ人物でもありました。霊についても深い関心を寄せており、一時は交霊会にも参加していたほどです。メーテルリンクの霊についての理解には、現代人らしい健全な理性的態度が働いています。彼が言うように、私たちがそれを完全に理解することはおそらく不可能なことなのでしょう。
しかし、そうした霊的な働きが人間の背後にあるのは確実なことであると、メーテルリンクは確信しました。彼が考えたように、人間の本質を追求していくと、それはまず確実なことなのです。しかし、私たちがそれについて理解できるのは、全体のほんの一部分でしかありません。霊というものに関して、基準となる考え方は次のようになるでしょう。
(1)
霊とはこの可視的世界の背後にあって、この世界と相互不可分に結びついており、原因と結果の法則に基づいて、さまざまな現象を引き起こす素因となるものである。
(2)
霊の作用の結果は、おもに生物の「意識」という形をとって現れる。したがって意識は脳内細胞の電気的な作用による物理的な結果ではない。しかし、意識は物質体である肉体に組織化されている間は、おもに肉体の脳を自分の表現手段として使い、かつ肉体の物理的作用のさまざまな影響を受ける。
私たち人間を単なる細胞の集合体とみなすのではなく、人の意識は目に見えない複合的な諸存在(霊)の集合体とみなすことによって、あらゆる問題を解決するための世界観を獲得することができます。
霊を認識することがいかに大切なものか、オーストリアの神秘哲学者シュタイナー(1861−1925)は語っています。
人間はだまされやすい存在なのだ。隠された意味など存在せず、感覚と悟性の及ぶ範囲内に存在しうるもののすべてが含まれる、と信じさせられている。
しかし、この思い違いは意識の表面では可能であっても、意識の深みにおいては存在しえない。人間の感情と願望はこの思い違いに従おうとしないで、繰り返し隠されてきた意味を求め続ける。
そしてそれを見出せなかったときには懐疑的になり、人生を不確かなものと感じ、絶望へと駆り立てられる。
隠された意味を開示する認識は、希望のない、不確かな、そして絶望的な状態を、つまり生命を弱め、世界のために役立つ力を失わせるすべてを克服することができるのである。霊学の認識は、知的な好奇心を満足させるだけではなく、生きるうえでの強さと確かさを与えてくれる。このことは霊学の実らせる美しい果実なのだ。(ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』)
 人間という存在はマクロコスモス(大宇宙)と照応しているミクロコスモス(小宇宙)にたとえることができます。
私たちの人体が宇宙と比較できるほど高度で精密な構造をもっていることは、現代科学が明かしているところでしょう。
さらに、いまだに解明されていない思考や感情、意志といったものは、まだまだ遠方のかなたにあるのです。こうした人間の存在を卑下し、矮小化する現代の人間観というのはあまりにも小さすぎます。
もっと大きなマクロな次元から人間をみることで、人間についての正しい理解が得られるのではないでしょうか。
これまで科学者は人間を物理的な細胞の集合体とみなしてきました。しかし、科学が進展するにつれてますます多くの矛盾が露呈してきています。たとえば病院で死に立ち会う現場の医師からでてくる臨死体験についての報告があります。それが驚くべき数(数万件)に達しているにもかかわらず、それを真剣に取り上げて議論することは避けられたままです。
また、退行催眠によって前世と呼ばれる領域で想起される事柄について、その事実が史実と一致すると確認されているにもかかわらず、これも無視されたままです。また、偶発的に観察される子供たちの前世を記憶する現象についても科学はやはり黙したままです。
現在の科学のこうした姿は、次のような確信を私たちに抱かせつつあります。
「科学はこれまで人間について、すべてを解明したかのように語ってきた。しかし、人間の複雑な精神現象については、実はほとんど理解できていないのではないか」
「科学がこれまで解明してきたのは肉体の細胞や生物学的な構造であって、意識そのものについてはほとんど理解していないのではないのか」
こうした疑問をもつのは私一人ではないでしょう。ますます硬直化していく教育や政治形態、文明のあり方をみていると、誰でも「何かが間違っているのではないか」と感じているはずです。
では、何が間違っているのでしょうか。それを一言でいうならば、「人間に対する根本的な考え方」なのです。だからこそ、今世界中で起きている環境破壊や教育の崩壊、文明の退廃について私たちは無力なままなのです。
科学は人間に対して一定の成果を上げてきました。私たちの肉体の各器官を細かく分析し、細胞や遺伝子の構造を解明し、またそれを医療等にも応用して実用的な効果もあげてきました。
しかし、真の科学はそこにとどまることはありません。未来の科学は見えざる意識の次元にまで踏み込まねばならないのです。なぜなら、それが人間の本質と深く関わっているからです。
教育を考えるうえで、こうした本質を外していくら教育の議論を重ねたとしても、けっして正しい解決にはいたらないでしょう。正しい人間の理解を得ることから、正しい教育につながっていくのです。
私たちはもっと真剣に考えねばなりません。人はどこから来てどこへ行くのか、人間の本質とは何か、それを理解することで新しい教育への道筋を見つけ出すことができるのではないでしょうか。
人生はスピリチュアルな試練だ
人間は何のために生まれてくるのでしょうか。生徒のこうした質問に、どれだけの教師が答えられるのでしょうか。
人間という存在を細胞レベルに分解してしまう考え方からは、こうした問いに明快な答えを与えることはできないでしょう。
すべてを分解していくだけでは、人間は単なる元素的な存在へと還元されていくだけです。
そこに生命と呼ばれる、私たちがたしかに感じている生き生きとした生命のイメージはほとんど伝わってきません。
ルネッサンス期を生きたダヴィンチやミケランジェロ、ラファエロは生命に対してもっと畏怖の念をもっていました。
人文学者のゲーテやシラー、哲学者のフィヒテは人間をもっと偉大なものと考えていました。
幼児教育の基礎をつくったドイツの教育家フレーベル、民衆教育の父といわれるスイスのペスタロッチは、人間のなかに宿る神的なものを重んじていました。生命を細胞に帰する考え方からは、生命に対する畏怖の念はまったく生まれてきません。私たち人間の体に栄養が必要であるように、私たちの精神にも生命に対する尊敬の念、畏怖の念といったものが必要なのです。
教育にもっとも大事なことを現代人は見落としてしまっています。「人はパンのみにて生きるにあらず」という、イエスの言葉をそこに見出すことができます。私たちはそろそろ目を覚まさねばなりません。生命が単なる細胞の集合体ではないことを知らなければならないのです。
では、生徒の質問である「人は何のために生まれてくるのか」という問いに対して、霊的な観点からはこう答えることができます。「すべての人は成長して強くなり、さまざまな試練を乗り越えて偉大なものになるために生まれてくるのだよ」と。
子供はそこから生命に対する偉大さを感じとることができます。「そうか、人間って本当はすごいものなのだ」「僕も大きくなったら偉い人になりたい」と子供が考えれば、教育の目的を達成することができます。
昔から子供たちに偉人伝を読ませる習慣も、人間に対する畏怖の念を教えるためにつくられてきたものでしょう。どんな人でも子供に対して「人は生きる目的なんてないのだよ」「人間は単なる細胞の塊なのだよ」と教える人はいないはずです。しかし、現代にはそうした風潮が流れてしまっています。
少し賢明な人ならば、たとえ霊的ものを全く信じていない人であっても、前者の教えのほうが子供にとってはるかに有益であることを理解するでしょう。
人間の本質を考えれば、人はすべて「成長のために生まれてくる」という事実が見えてくるのです。
成長なくしては、人生の価値は減じてしまいます。前世療法で著名なアメリカの精神科医ブライアン・L・ワイス博士は、退行催眠によって多くの生まれ変わりの事例を見てきた経験から、人生の価値をこのように表現しました。
私たちは学び成長するために、肉体をもった次元にいます。愛、非暴力、慈愛、思いやり、信仰、希望、許し、理解、気づきなどの資質を学ぶのです。そして恐怖、怒り、憎しみ、暴力、貪欲、プライド、欲望、利己主義、差別などの否定的な資質を捨てることを学ばなければなりません。私たちはこうした課題を、主に人間関係を通して学んでいくのです。(ブライアン・ワイス『前世からのメッセージ』)
すべての人は成長するために生まれてきます。それは必ずしも楽しいものではないかもしれません。しかし、人は学び成長することでかけがえのない大切なものを得ることができるのです。
大切なのはスピリチュアルな教育だ!
霊的な観点から教育全体に対する考えを見直すことによって、教育のなかに生命の力を吹き込み、新たな活力を取り戻すことができます。教育の中には真理に対する何らかの基準がなければなりません。
子供たちの本性を知らずに教育を施すことは、子供の健全な発育を妨げ、生きる力を失わせていくことに他ならないのです。近代教育の基礎をつくった一人であるスイスの教育家ペスタロッチ(1746−1827)は、自然の高貴なる本性にしたがった教育を理想の教育として見ていました。
学校の人為的な方法は、急がずに時期をえらぶべき自然の順序を、ともすれば無理やりに駆り立てようとする。こうした方法は人間の内面的な本性の力の欠乏を覆ってしまい、そして現世紀のような軽薄な時代を満足させる、人為的で虚飾的なものにしてしまう。
……人間の精神が一つの事柄にむかってあまりにも偏り、またあまりにも導かれると、人間は自己の力の均衡ないしは知恵の力を失ってしまう。……すべての人類はその本質が同じなので、人類を満足させるただ一つの道があるだけだ。だから純粋にわれわれの本質の奥底からくみとった真理は普遍的な人間の真理となるだろう。(ペスタロッチ『隠者の夕暮れ』)
教育の中に正しい価値観を据えることは、何よりも大切なことです。ペスタロッチが言うように、それは人工的につくられたものではなく、自然の英知のなかにある本性でなければなりません。
では、自然の中に見出される人間の本性とは何でしょうか。それは高貴なる「霊」という概念に他ならないのです。人間の霊性について言葉で語ることは容易なことではありません。
宇宙の本質を電波望遠鏡では捉えられないように、人間の頭脳もまた真の霊性を理解することができないからです。
しかし、私たちがその本性に基づいたものであるならば、少なくともそれをどこまでも理解するように努めねばならないでしょう。では、それをどのようにして教育に応用できるのでしょうか。
今、私たちが早急に取り組まねばならないことが、そのことなのです。ドイツの教育家フレーベル(1782−1852)は、教育の中に神的なもの、つまり霊的なものを見出すことがもっとも大切であると考えていました。
人間のなかにある神的なもの、すなわち人間の本質は教育によって人間の中に展開され、表現されて意識化されるべきであるし、また当然そうでなければならない。したがって人間も彼の中に働いている神的なものに、自由にかつ意識的にしたがって生きることができるように、またこの神的なものを自由に表現することができるように高められるべきであるし、また当然そうでなければならない。
人間を取り巻いている自然に内在し、自然の本質を形成し、自然の中につねに変わることなく現れている神的なもの、精神的なもの、永遠なものを教育や教授は人々の直観にもたらし、人々に認識させるべきであり、またそうでなければならない。(フレーベル『人間の教育』)。
人間の中に神聖なものを見つけ出すことによって、人間の本性に基づく教育が可能になります。人間の中にある神聖なものとは何でしょうか。古来、それは「魂」と表現されていました。魂とは人間の中に宿る普遍的な霊性を表現するものであり、大自然に連なる神的な働きの延長線上にあるものです。人間の高貴な言葉、想い、行いはすべてこの魂より生じてきます。
人間の高貴なる本質がわかれば、現代の教育に欠けている部分がたくさん見えてくるでしょう。子供を単に社会の構成員と考える偏狭な教育ではなく、教育というものを「魂と魂の向き合う場」と考えれば、大切なのは子供たちの本性として心の中に宿っている「魂を育てることである」ということがわかってくるのです。
スピリチュアルに関しての詳細は、拙著『霊科学の驚異』をご参考ください。
〔八島高明・文〕
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