かつて東アジアで栄えた仏教が目指したのは、煩悩からの解脱でした。煩悩とは、私たち凡人たちを悩ます妄念のこと。つまり、執着する性質、怒りっぽい性格、愚かな頭脳、おごる心、疑う心など、人間には108つもの煩悩があるといわれます。この煩悩があるゆえに、人はどうしても悩むのです。では、煩悩から開放される、つまり解脱するにはどうすればよいのか、そのもっとも大切なものを考えていきます。
煩悩講座1
苦しみの起源がわかれば、出口も見えてくる
この世に悩まない人はいない
この世界のどんな人であろうとも、自分には苦しみやストレスが全くないと言う人はほとんどいないでしょう。この世界は基本的に生きていく上での様々なストレス、制約が存在する世界だからです。
現実的には金銭のことや病気のこと、仕事のことや家庭のこと、自分自身の才能や容姿、将来に対する漠然とした不安など、それらを一々数え上げたら切りがないほどです。
また、現在は何の不安もないという人でも、明日はどうなるかはわかりません。私たち人間を取り巻く、こうした物理的・心理的な制約は何のために存在するのでしょうか。煩悩はこうしたものがある限り、私たちに付きまとうことでしょう。
結果的に見れば、悩むことで人は強くなり、苦しい環境が人間の精神を強靭にし、さらに意識や認識をかなり拡大させてくれるのは間違いありません。
しかし、それも厳しい運命環境の真っ只中にある人にとっては、こうした法則について考えるゆとりなどはないものでしょう。
苦しみを直視することで真実が見えてくる
では、人々の最も忌み嫌うところの不快な苦しさ、煩悩というものは、また、そうした運命とはいったい何のために存在し、どのようにして起きてくるのでしょうか。そもそも「苦しみ」が発生するときを考えてみますと、次のように言えると思います。
人は自分の成すことがすべてうまく行く時には、苦しみや苦痛はほとんど感じない。ところが反対に、全てが自分の思い通りにならないときには、激しい苦しみを感じる。
「苦しさ」とは、そうしたときに発生するものですが、それは愛情に関してのことであり、時には金銭のことであり、ときには家庭のこと、あるいは病気のことや仕事のことであったりします。それら全てに共通するのは、その苦しみの根底に「自己」という、自分の意識が関っているとういうことです。
つまり、言いかえれば、自分の周りの環境やあるいは自分自身が「自分の思い通りにはならない」ことが、苦痛の最大の原因なのです。煩悩はもともと本能としてあるものですが、煩悩はまさにそこから燃え盛るのです。
そう考えるとき、では、その次にこの苦しみの主体となる「自己」とは、いったい何だろうかということを考えねばなりません。通常、人は外部に苦しみの原因を見出し、ほとんどの人が自分のことについては深く考えません。
しかし、よく考慮しなければならないのは、実はこの「自己」についてのことではないでしょうか。2500年前に仏陀が教えたのも「本当の自己を知れ」ということだったのです。それは奇しくも西洋ギリシャの有名な格言「汝自身を知れ」と同じ結論だったのです。
自分がわかれば、苦しみからの出口は近い
自己の本質とは何か?

苦しみを感じるところの本体である、「自己」とはいったい何でしょうか。
この自己についての解釈は、これまでも哲学などで常に取りあげられてきたテーマです。これを運命分析の観点より考えてみましょう。
運命分析では自己という場合、単純に自分自身の意識という解釈の仕方はしません。運命分析でいう自己意識とは、
「自己の無意識的な生命作用と、過去の記憶を統合して形成された意識」
を言います。潜在意識の中で作用する心理器官をはじめとして、その人の潜在的な記憶などが複合的に混在してできた「自己感覚」を言います。
そういう背景を考慮にいれますと、自己とは、「自我や他の無意識、さらにこれまでの記憶や経験の複合体である」と考えられます。別の項目で人間の無意識の構造が生誕時に決まることを述べてきました。それはさらに、時間で巡る生命エネルギーの作用を受けて、常に変化していくものです。
ですから、あなたが自分自身であると考えている「自己」も、実際には時間の巡りと共に常に変化していくものだと考える必要があるでしょう。たとえば、気の弱かった人が急に気が強くなったり、保守的だった人が急に先進的になったりもします。こうした不思議な心理現象も時間の移行に伴って生じてくるのです。
このような心理現象は、人間の心理内部での構造が変化していくことによって起きてくるものですが、私たちが考える「自己」が、このように時間によって周期的に変化していくものであれば、普段、私たちが自分自身であると強く意識する自己も、またその存在基盤を失うことになるのです。
人間の意識は流動的であり、自己には実体がない
ここで大切なことは、あなた自身が自分であると思いこんでいる自己とは、言いかえれば、「自然界の大きな干渉を受けて漂う流動的な風のようなもの」であり、けっして固定された不変的なものではないということです。
それは、あなた自身が自分であると思い込む確固たるベースが、実は観念の世界に存在するものであり、この現実的な世界には存在しないものだという結論に至ります。
宗教世界でよく言われるように「人間の意識には実体がない」というのは、ここでも同様なのです。私たちが最も信頼する自己が、もしこのような一時の現象的な存在であり、恒常的な不変のものではないとすれば、私たちが感知するところの、この苦しみとはいったい何でしょうか。
実体のない自己を解明すると、苦しみが消えていく
苦しみの多くには実体がない
こうした前提をベースにして考えますと、こうした苦しみも、じつはまったく実体のないものであり、こうした現象が実際には私たちの心理内部で形成されている心理現象であるということを知らねばなりません。
でも、現実的には「苦しいものは苦しいのだ」と言う人もいると思いますので、その対処についてもう少し考えてみましょう。
これまで述べてきたことは、「私達の自我意識はじつはかなり曖昧なものであり、時間の運行と共に変化していく実体のないものだ」ということでした。
そして、この実体のない存在を私たちは自己であると思い込むことによって、苦しみを発生させているのですが、時としてそれは、苦しみの観念的な世界を形成してしまい、その中にはまり込むということが実際に生じてきます。
その渦中にある人は、自分自身の心理内部で起きている苦しみの心理作用にはなかなか気がつきません。現実的には、こうした心理作用は実は自己の潜在意識の内部で起きているのです。では、こうした心理作用はどうして生じてくるのでしょうか。
自分の満たされない想いが苦しみを形成する
苦しみとは、周囲が自己の思い通りにならない場合に起きてくるものだと言うことを述べました。では、自己の周囲の環境を自分の思いのままにしようとすることが、客観的、理性的に見て正しいことなのでしょうか。それが健全なものであり、建設的なものである場合は多いに結構なことです。
しかし、その多くが実際には自己の充足されない欲望から出てくる場合が非常に多いのです。多くの人はその事実に気がつきません。そこが問題なのです。
人間のような深い心理的な苦しみは、動物のような下位の生物にはありません。人間は意識の中に「自己という強い意識」を持ち、この世界で生きていく宿命を負っています。これが人間という生命に仕組まれた自然界の構造なのです。
人間の中には動物的な部分と高等な神的(霊的)な意識が混在しています。かつて動物だった感覚は自己意識を強め、弱肉強食的に自己の生存を推し進めます。
ところが神的な感覚は高等な理性的な意識をもたらし、人間に慈愛の精神、高度な英知をもたらします。つまり、人間の潜在意識の中には相反する二つの意識(善と悪)が混在しているのです。この二つは人間の潜在意識の中で優越争いを繰り広げます。そして動物的なものが優位に立ち、精神的な均衡が崩れたとき、人間の高度な部分が苦しみを発するのです。
その根源のなかに自己感覚があります。自己意識が強すぎるがゆえに、苦しみが激しく生じてくるのです。
動物には人間のような苦しみはありません。彼らは人間と違って、高度な精神機能を持ちません。
あくまでも大自然の原理の中で、自然に生きているから苦しみがないのです。苦しみを無くすには、まず、強すぎる自分という強い意識(自己感覚)を捨てなければなりません。
それができれば、少しずつ苦しみは消えていくのです。苦しみが人間原理に根ざしている以上、どんな人もそこから逃れることはできません。
私たちにできることは、過去の偉大な方たちが為したように、自己の心的プロセスを解明し、その法則性から逃れ出ることです。こうした道を仏教では「解脱」と呼びました。
インド哲学ではアートマンとブラフマンの合一、道教では神仙(タオ)との合一、西洋では神との合一といいました。世界中の神秘学はこのことを説いています。
苦しみの世界から抜け出るこうした道は、平凡に生きる人にとっては容易な道ではありません。でも、苦しみの世界から逃れるには、どんな人もこうした道をたどらざるを得ないのです。それがどんなに時間を要しようとも、人間は先に進んでいかねばならないのでしょう。どんな人も後戻りはできないからです。
運命分析学では、単に運命を改善して平和を得るというだけではなく、究極的には苦しみの運命世界を超越するために自己の心的プロセスを解明し、霊的に向上していくのを最大の目的としています。
〔八島高明・文〕
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